街を開いた初代藩主松倉重政

島原藩主の松倉重政は、後に島原の乱(1637~38)を引き起こす要因をつくった側面が色濃く伝えられている。だが、島原城を中心とする城下町を造り上げ、島原発展の基礎を築いた功労者でもあり、その評価は今も分かれている。

重政は1616年、大和国五條(奈良県)から島原に入封した。入封前は関ケ原の合戦で軍功を立て、徳川家康に取り立てられて大和五條一万石をたまわった。大阪の陣でもその働きは目覚ましかったとされ、島原では肥前国高来郡四万石の大名となった。

新興大名の意気込みで島原に乗り込んだ重政は、18年に島原城の築城に着手。島原の地は領地の中央部にあり、有明海交通における重要な港町だった。ここに、有馬氏の時代から続いていた日野江城(南島原市)から領主の居城を移転させ、治世を支える城下町を建設した。完成までに4~7年かかったとされる。

まちづくりが極めて大規模だったことから、海外交易で潤っていた当時の島原の経済力がうかがえる。重政は港町を古町、新町、三会町と拡大した上で、町家を集めた。城は北側に城郭と武家屋敷を配置し、中央に天守閣を建てた。

一方、幕府は12年に出した禁教令で「伴天連(ばてれん)門徒御禁制なり。もし違背(いはい)の族あらば忽(たちま)ちその科を免れるべからざる事」とし、キリスト教信仰の全面禁止を打ち出した。もちろん重政もこれに従ったが、地域では信徒の不満がくすぶった。2代目勝家の治世に島原の乱が起こり、国を揺り動かす大乱となった。

大著「島原半島史」の編者林銑吉は、重政公を戦場往来の勇士として豪放で、剽悍(ひょうかん)だが純情な面もあると評した。臣下に接する態度もすこぶる庶民的で、日常生活も極めて質素だったという。もし天があと数年の齢を与えたなら、いかなる業績を残しただろうか。57歳で他界した。(松尾卓次・島原城資料館解説員)

平成29年8月 西日本新聞へ寄稿掲載文

供養祭詳細

日時

令和5年11月19日(日)午前10時~11時

場所

清光山・江東寺
島原市中堀町42

主催

松倉公島原城築城・城下町開府400年記念供養祭実行委員会

実行委員会代表

松尾卓次(島原城資料館解説員)

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